パフェを食べられない人のブログ

そんなことしてる場合か?

見るなの禁と鬼女、「女」に付される物語ーー黒塚に喚起される私の妄想を主軸としてーー

 ああ、ここから私が書こうとしていることに、私は本当は自信がありません。私は何もかも間違っているのかもしれない、誰か絶対的に正しく偉い人が現れて私を恫喝したならば、わっと泣き出して謝ってしまいそうな気がする。でも、こういったことこそが私をずっと苦しめ続けてきたことの一つだと思えば、私はやはり書いて、考えなくてはならないのでしょう。

 書きます。

4月6日、生まれてはじめてまともに歌舞伎を観に行きました。四代目猿之助の演じる歌舞伎「黒塚」、すばらしかった。

けれども私は、歌舞伎や舞に関して、それを語るための言葉を持たないので、何がどのようによかったのかということについては書けません。私は結局のところ私のことについてしか書けませんので、黒塚を観てぼろぼろに泣いてしまうという大変個人的で情緒的なことに関して書きます。それは、結局のところ、男とか女とかにまつわるくだらない物語から抜け出そうよ、という話になるのだと思うのですが。

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日本文学における「見るなの禁」

 歌舞伎(というか元は能なのですが)「黒塚」のストーリーは、いわゆる「見るなの禁」という物語類型に則ったものとなっています。「見るなの禁」ものでメンタルをぼろぼろにしてしまう私としては、まずはここから話を始めなくてはならないでしょう。

 見るなの禁、というのは「見てはいけない」とタブーが課せられていたにも関わらず、それを破って見てしまったことにより悲劇が訪れるという民話の類型です。多くの場合、日本の神話民話における見るなの禁は、異類(鶴やサメやうぐいす)が人の女に成って男の女房(もしくは女房のように世話をしてくれる)となって暮らし、しかし彼女には一つだけ男に隠している秘密、見てくれるなと懇願する何かがある。男は一度は見ないと約束するけれども、誘惑に負けて秘密を覗き、覗かれたことで異類の姿に戻ってしまった彼女は、嘆きながら去ってゆく、という形をとります。

 言い方を変えます。日本の神話民話において、見るなの禁は、ほぼ必ず、女によって設けられ、そしてそれは常に男によって破られます。さらに、タブーを犯した男は罪に問われず、見る罪よりも、見られた恥の方が強く強調されます。*1

 この罪に問われない、ってところは正直にいってなかなかにひどい。豊玉姫の出産を知っていますか。うぐいすの里を知っていますか。うぐいすの里、マジにひどいですよ。

 (森の中に見つけた見慣れぬ立派なお屋敷を見つけた男は、屋敷の美しい女主人に頼まれて、女が町へと出かける間、屋敷の留守を預かることになる。「わたしがいないあいだ、このつぎの座敷をのぞいてくれるな」という約束を承知した男はしかし、誘惑に耐えきれず、座敷を次々と覗いてしまう。七番目の座敷には小鳥の巣。男は巣の中にある卵を一つ手に取ろうとしてあやまって取り落とし、そして二つめも、三つめも、巣に入っていた卵をすべて割ってしまう。男はぼんやりとそこに立ちつくす。)

 そのとき、さっきの女が帰って来ました。樵夫の顔を見てうらめしそうにさめざめと泣き出しました。「人間ほどあてにならぬものはない、あなたはわたしとの約束を破ってしまいました。あなたはわたしの三人の娘を殺してしまいました。娘が恋しい、ほほほけきょ」といって鳴いて、その女は一羽の鶯になってとんで行きました。樵夫は小鳥のゆくえをながめ、傍らの斧をとりのけて伸びをしました。そして気がついて見ると立派な館はなく、ただの萱の野原にぼんやり立っていたということである。(河合隼雄著『昔話と日本人の心』巻末付録より) 

ぼけっと突っ立ってんじゃねえぞダボ。いやほんとうにこの男のウスラトンカチぶりには目を見張るものがありますが、これほどはっきりとした罪を犯していて尚、禁を破ったものには何の罰も与えられていないということにはびっくりして驚きです。

 さて。私がこの日本型見るなの禁に情緒ガタガタいわされてしまうのは、ほら、やっぱり、なんていうか、ね、見られたくない女と罪の意識もなしにのぞき見る男、の構図に、そしてその図式が固定化されているという事実に、どこまでも悲しく、やりきれない思いをするからです。


多部未華子 悲しくてやりきれない

 

見ることと見られることの権力関係

 例えば、男性による「垣間見」によってその姿をのぞき見られ、容姿を確認された平安時代の女性たちのことを思う時、もしくは、「モテ」「愛され」の言葉が踊る女性向けファッション誌の表紙を見かけた時、あるいは、前に働いていた職場の男性陣が、飲みの席で女性職員の容姿に偏差値をつけていたという話を聞いた時、私は、私たちが、「かわい~い」「かわいくな~い」のラベルを貼られてずらりと自動販売機に並べられている、そんな絶望的な想像をしたものです。

今までたびたび疑問視されながら今もって改められていない慣習によれば、女性の社会的存在は男性のそれとは趣を異にしている。男性の社会的存在は彼の能力の有望性に依存している。その能力が大きく確かなものであれば、彼の存在は目だつものとなり、逆にそれが弱く不確かなものであれば、彼は存在感が薄いとされてしまう。その能力とは例えば道徳的なものであり、肉体的なものであり、感情的なものであり、経済的なものであり、性的なものであるかもしれない。しかしその力の方向は常に彼の外にある。男性の社会的存在とは、あるものに、またあるもののために、どんなことができるのかを示すことである。(中略)

 反対に女性の社会的存在は彼女の自分自身への態度をあらわし、自分に対して何がなされうるか、あるいはなされえないかを規定する。彼女の社会的存在は、その仕草、声、意見、表情、服装、選ばれた環境、趣味などのなかに示されており、彼女のおこなうことすべてが自分の社会的存在に寄与することになる。(中略)

 女性に生まれるということは、割りあてられた狭い空間のなかで男性の保護のもとに生まれるということであった。(中略)彼女は自分のすべてと自分がすることのすべてを観察しなくてはならない。なぜなら彼女が他人にどう見えるのか、結局は彼女が男性にどう映るのかということは、彼女の人生の成功に関して決定的なことであるからである。ゆえに彼女が自分だと感じているものは、実は他人が彼女だと思うことに取って代わられている。(中略)

 簡単に言えばこう言えるかもしれない。男は行動し、女は見られる。男は女を見る。女は見られている自分自身を見る。これは男女間の関係を決定するばかりでなく、女性の自分自身に対する関係をも決定してしまうだろう。彼女のなかの観察者は男であった。そして被観察者は女であった。彼女は自分自身を対象に転化させる。それも視覚の対象にである。つまりそこで彼女は光景となる。(ジョン・バージャー著 伊藤俊治訳『イメージ 視覚とメディア』第三章「「見ること」と「見られること」」より)

  見るものと見られるものの関係が、交換不可能な固定されたものである時、「見る」ことは一つの権力であり、支配であると言えるでしょう。「見る」ことは価値を判断し、評価することであり、「見られる」側にその基準を押しつけることでもあるからです。

 私に向かって、「大丈夫、まだ全然イケる」と言う男性が往々にして存在します。「イケる」って、どういう意味ですか?私の容姿もろもろが、あなたにとってセックス可能な基準をクリアしていたからといって、私にとってそれが何になるでしょう。なぜあなたは、当然のように評価する主体の座におさまって、私をジャッジしようとするのですか?

 1986年にバージャーが指摘した、男と女の見る見られるの関係は、大昔から、そして残念なことに今でも、色濃く色濃く残って私たちの関係や価値観に入り込んでしまっている、と私は思う。けれどもそれは、絶対に絶対に絶対に、「普遍的」で「自然な」関係なんかじゃないのです。(だって本当は、私たちはお互いに見て、見られている。女が男を、男が男を、女が女を。私が他人を見てジャッジする瞬間は今までも絶対にあったことで、同時に私は私のことを、他者に見られるために存在しているのではない、と強く思う。私が自分の身体を自分のものだと思うのと同じように、他者の身体はその人のもので、その人のためのものだ。見られてジャッジされることは、あんなにも悔しいことだったから、私は自分が他人の容姿を好ましい、好ましくない、と思うことが恐ろしい。「見る」ことはしばしば暴力であり、私はそれを忘れてはいけない、と思う。)

 話を見るなの禁に戻します。だから私は、男を「見る側」、女を「見られる側」に固定し、女が男から隠そうとしたものこそがその女の(恥ずべき)本質であるとして、男が暴く、そんな日本型「見るなの禁」が、そういう物語類型が生み出される背景にある価値観が、悲しくて、悔しい。

黒塚における「見るなの禁」

 さて、黒塚もまた、見るなの禁のセオリーに則った物語になっているのですが、黒塚の特異な点は、隠したかった罪を見られた岩手が、鬼の姿を現し、タブーを犯した男たちと戦う女であることではないでしょうか。また、ほとんどの見るなの禁ものが、異類が人の女と成って男のもとへやってくる押しかけ女房的な要素を含んでいるのに対し、岩手は元々は人であって、重ねた罪によって鬼へと墜ちる女であること、彼女が男の家へ行くのではなく、男たちが一夜の宿を求めて彼女の家へやってくるということも違いとして挙げることができそうです。

 人喰う鬼となってしまう前の人としての岩手の半生については、第一幕にてさらりと語られるのみですが、父の罪による流罪、夫の裏切り、そういった男たちの人生に巻き込まれて、あるいは捨て置かれて、岩手は安達ヶ原のあの寂しい廬で、老婆となるまでの長い年月を生きてきた女でした。妄想込みで言わせてもらえば、岩手は何度も何度も男に裏切られ、絶望する女だったのではないですか。なんならきっと、岩手はまだ人だったころも、見るなの禁を破られたことがあったでしょう。他の物語の異類の女のように、見られることで本来の姿へと戻ってどこかへ帰ることもできず、岩手はそこで、その場所で、裏切られ絶望したまま生きていかなくてはいけなかった。岩手が見ないでくれと願った閨の中、人間の手足がちらばり、血の海となったあの部屋は、鬼となった岩手の「本性」を表すものであると同時に、岩手が生きてきた地獄そのものではなかったか。岩手は毎夜毎夜、犯した罪の地獄の中で、絶望しながら生き続けてきたのです。

 

鬼と女とは人に見えぬぞよき

 鬼女もの、というのも一つの物語類型であります。女は、その情念から、宿業から、恐ろしい鬼へと姿を変えてしまう。花嫁は従順でしとやかな妻となるためにその角を隠され、結婚した後バリバリ自己主張するようになった女は鬼嫁と呼ばれる。女は皆、女であるが故に、その身に鬼を宿している。(でもほんとうに?)

ーー鬼と女とは人に見えぬぞよき

とは虫めづる姫君の言葉です。

 価値観の変革を自問する〈虫めづる姫君〉が、さすがに「人に見えぬ」という女の掟を破り得なかったところに、〈羞恥〉の伝統の堅牢さを見る思いがするからであり、さらには、良俗に反して生きるという、背水の陣に立つ姫君の防衛本能が、無名の鬼として生きるものの韜晦本能と重なるからで、女と鬼との反世間的抵抗は二重うつしとなって、その生きがたさを頒ち合っているのである。(『鬼の研究』馬場あき子著より)

女は美しく装って、けれども男にけっして姿を見せてはいけない。男が垣根の隙間から、中にいる女をのぞき見ることによって、恋が始まる、と物語は描き続ける。(女は美しく、かつ清純に、その上でエロくあれかし。チラリズムラッキースケベ。恥じらいを忘れるな。インスタグラムに自撮りをアップする女を5ちゃんねるの男が叩く。見せる女はいやらしく、見せぬ女は自意識過剰。溢れる表象とその堆積とが醸成する価値観から私はどこまでも逃れがたい。見せるな。そして見せろ。)

 眉を生やし、お歯黒をせず、毛虫を愛でる彼女は、平安時代の「女、かくあるべし」を振り払って振り払って生きる。彼女がそれでも「人に見えぬぞよき」というのが私は悲しい。みんなと違う彼女が平穏に彼女の人生を生きるためには、みんなと同じように姿を隠さなくてはならなかった。規範に従っても、従わなくても、女は姿を隠さなくてはならない。鬼がそうであるのと同じように。その価値観の下では、女は社会の構成員として認められてはいない。

鬼となる女、折伏する男

 男は解決脳、女は共感脳。男は理性的、女は感情的。君、女の割に理屈っぽいって言われない?ああー、始まったよ女特有の論理の飛躍。君の言いたいことはわかるけど、でもそれって感情論だよね?

 二度と。私の前で、二度とこの手のファッキンクソ妄言を吐いてみろよクソ野郎。(今まで何度もぶつけられてきて、これからもぶつけられるだろうクソ)(そもそも感情的になることの、何がそんなに悪いのか、言ってみろ。言ってみろよ)

 女は、その燃え上がるような情念によって(Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen)鬼となりうる存在であり、女と鬼とは同様に、社会から隔絶された「人に見えぬぞよき」ものである。とされる、そのことは、例えば私にクリステヴァの「おぞましきもの」を思い起こさせる。

 クリステヴァによれば、広い意味での〈文化〉のなかには論理的整合性に向かう部分(ル・サンボリック=象徴作用)と、その彼方に向かう部分(ル・セミオティック=現記号作用)がある。狭い意味での〈文化〉の枠内にはまり切らないものは、女性であれフリークスであれユダヤ人であれ、文化のなかでは排除の対象になる。(山口昌男著「スケープゴート詩学へ」より)

もしくは、オートナー・パラダイム的価値観を象徴していると言ってもよいだろう。

 多くの文化において、意識的にせよ無意識的にせよ〈文化〉に対置される〈自然〉の概念が存在する。〈文化〉は〈ウチ〉の秩序へ、〈自然〉は〈ソト〉の混沌へと回復する傾向があると考えられ、女性が多くの社会で差別の対象となるのは、彼女らが〈自然〉に近いと考えられるからである。生物学的条件において、心理において、またシャーマン的な霊能力を発揮するという点で、女性は男性を中心としてつくりあげられた〈文化〉の規範には収まりきらない部分を保っている。この分だけ女性は〈文化〉から〈自然〉へはみだしていき、〈ウチ〉にいながらにして高い異人性を獲得していく。こうした女性の位置をシャリ―・オートナーは女性の仲介的位置と呼び、その仲介的な位置ゆえに女性は多くの社会で差別の対象になってきたと説く。(山口昌男著「スケープゴート詩学」より)

  山口昌男のこの書き方にはいっぱい気に入らないところがあるし*2、 男は「文化」(つまり政治や論理、法、文字、秩序)の側に割り当てられ、女は「自然」(神秘、感情、魔、声、混沌)の側に割り当てられているとするこういった学説をそっくりそのまま認めるのは無理筋だと私も思う。けれどもこういった「物語」は薄められて薄められて今も尚続いている呪いではないだろうか?(ナウシカ!一人の女の子であることを超えて、世界を救う女神とさせられていくあなたが私はやっぱり悲しい。)

 女を「魔女」と見てきたのも男の文化なら、「聖母」とあがめてきたのも男の文化である。男がつくり出し、女が内面化した、この女についての「神話」をうちこわさなくては、生きている女は見えてこない。男の眼に見えてこないだけではなく、女自身にさえ自分が見えてこない。あらゆる神話的なカテゴリーから生きている個人を救い出そうというのが近代主義イデオロギーであり、フェミニズムはその限りで近代思想の産物である。これは厄介な思想だが、近代を通過してしまった私たちにはもはや後戻りすることはできない。(上野千鶴子著『女は世界を救えるか』あとがきより)

さて、再び話を戻します。黒塚においては、鬼となった岩手を、法師である阿闍梨祐慶たちが折伏します。この構図に私は、男=秩序/女=混沌の図式を見てしまう。男たる阿闍梨祐慶には理があり、女岩手は人にあだなすおぞましき鬼。この二項対立を自明のものとするファッキン阿闍梨祐慶たちには、(そう、多くの見るなの禁の男たちと同じように)岩手との約束を破って閨を見たことや、岩手を殺すことへの罪の意識はまったく無いのですね。私が、私たちだけが、岩手が本当は鬼でなくて、人であることを知っている。岩手は人間だから自分の罪に苦しみ、人間だから、来世での救いを、その可能性を思うとうれしくてうれしくて、月あかりの下一人はしゃいでいたのではなかったか。見て、本質を知ることができる、それを成敗することができると信じて疑わない彼らの傲慢さよ。なぜ彼女は鬼になったのか?彼女を鬼としたものは何だったのか?おまえはそれを考えもしないけれど、けれども私は知っている。岩手を鬼にしたのは、おまえだ、おまえたちだ。

わるいのは、あなただ。

 

女生徒

女生徒

 

 2019年、私たちの安達ヶ原

 僧侶どもに祈り伏せられて、岩手がどんどん弱ってゆく。花道にばたりと倒れて、さっきは嬉しく影と戯れた木にすがりついて。塚へと封じられながら、彼女は小さく、恥ずかしそうに顔を伏せる。彼女はきっと、もう約束を違えた裕慶を恨んではいない。ただただ鬼となった身を恥じている。(あさましや恥ずかしの我が姿や。)辛かったね、苦しかったね、でももうそんなに自分を責めないでよ。鬼になっちゃったの、あなたのせいじゃないし。たくさん裏切られて、我慢して、自分も罪を重ねて、悲しいことばっかりだったよね。今もそうだよ、やっぱり悲しいことばっかりだよ。

 岩手が生きてきた地獄を私たちもまた歩いているのだから。

(男=文化/女=自然の図式が、誤った神話に過ぎないのと同じように、男=加害/女=被害の図式も同様に普遍のものでないことを私は知っている。岩手は虐げられる女であると同時に、誰かを虐げてきた女でもあったのだ。私は、私の隠す私の閨が、血に濡れていないとは思えない。虐殺の文法は何度も何度も形を変えて繰り返される。いろんなところで、いろんな誰かが、たくさんたくさん死んでいく。)(私は感傷的に過ぎるし、そしてまたセンチメンタルは何ものをも救うことができないと思うけれど。)

 

  すべてさびしさと悲傷とを焚いて

  ひとは透明な軌道をすすむ

  ラリックス ラリックス いよいよ青く

  わたくしはかっきりみちをまがる

 

春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ)

春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ)

 

 

 

*1:河合隼雄『昔話と日本人の心』「第一章 見るなの座敷」に詳しい。この章にて、河合は世界各国に存在する見るなの禁類型の民話を比較し、西洋型見るなの禁と日本型見るなの禁との差異を明らかにしている。西洋型見るなの禁は、例えば「青ひげ」のように、禁じるものが男、禁を破るのが女であり、禁を破って部屋(大抵死体がごろごろしている)へ入った女を男は殺そうとするが、他の男性協力者により女は救済され、男は死ぬという形をとるものがほとんど。女が禁じる場合、それはマリアや魔女といった超人的な存在であり、禁を破ったものはその罰を受ける、といった形をとっている。対して日本版見るなの禁はほぼ必ず、禁じるのが女、禁を破るのが男であり、「タブーを犯したものに何らの罰が与えられず、タブーを犯されたものは悲しく立ち去ってゆく」のである。

*2:まず第一に、「生物学的条件において、心理において、またシャーマン的な霊能力を発揮するという点において」、女は男の作った文化に収まりきらない部分を持っているのではなくて、そういったものが収まらないようなものとして「文化」が作り上げられている、と言った方がよいのではないの?高い異人性を獲得していく、の部分も同様に。